上智大学の今と昔

全国の大学を実際に訪れて取材し学生や学部学科の特徴をまとめた『大学図鑑!』シリーズを長年監修しているオバタカズユキさん(53)に本学の移り変わりについて聞いた。

 

【略歴】

浪人中、早稲田大学の講義に潜っていたが「マスプロ教育ばかりでつまらない」と感じ、また貧困問題に興味を持ったため、ほぼ第1志望で上智大学文学部社会福祉学科を受験した。

入学後「ちゃんと勉強しよう」と思っていたが期待と違い、在学中は主に大学外のコミュニティで様々な経験をしようと試みた。

卒業し出版社に勤めるが社風が合わずに2ヶ月で退職する。在学中にシナリオライターの弟子についたものの能力不足を感じたこともあり、どのような内容でも執筆可能なフリーライターを目指した。期間を3年と決め、その間に食べていけるようにならなかったら諦めようと考えた。

自分自身が「本当は何をやりたいのかわからない」こと自体をテーマにし、デビューできたという。以後、現在までフリーランスで仕事を行なっており、今までで日本の主要な出版社ほぼ全てと関わってきたと語った。

【昔の上智大学について】

「今って購買ある?」

小畠さんの在学時は、現在の8号館向かいの場所に「掘っ建て小屋」のような購買があったという。

本学現7号館の周囲は小さな空き地で、そこに飛び降りて亡くなる人がいたことから自殺の名所とされていた。

中央図書館はまだ真新しく、現6号館の上智会館1階がもっとも規模の大きな学食だった。

当時は卒業必要単位に148単位が必要で、かつ、チャイムが鳴れば教授が教室の扉を施錠してしまう講義も多くあった。「出席は他の大学に比べかなり厳しかったのでは」とオバタさんは振り返った。受講していた石澤良昭教授の講義では、30枚〜50枚のレポート課題が手書きで出ていたという。

また、「故・渡部昇一教授はいつも護衛のように筋骨隆々の男子学生を3人ほど連れてメインストリートを歩いていた」と話した。

現在の国際教養学部は当時比較文化学部と呼ばれ、市ヶ谷キャンパスにあった。「比文の学生が四ツ谷キャンパスに来ると、完全に別の文化の人だった。文化的多様性は当時において大変進んでいた」と振り返る。

女子のジーンズルックは現在でこそ普通だが、当時は「カジュアルすぎる」ものだった。思いを馳せてみれば、現在の本学とは施設や雰囲気が大きく異なる。

【上智生と愛校心】

「上智の卒業生の多くは大学と関わることなく生活しているが、心の中には故郷に対するような愛校心が存在している」と小畠さんは話した。

「職業上、企業の採用側の人間と多くの関わりがある。早慶と一緒には扱ってもらえず、就活でも待機や面接の部屋を分けられること少なくない。加えて上智は学生数が少なく、就職に不利と思われることもある。これは1988年から変わらない。

ただ、個人的には上智卒の編集者から仕事を振られることも多く、なんだかんだ贔屓されているのではないか」と体感を述べた。

【上智生に向けて】

 「あえて悪い評価を述べるなら、男子学生は真面目だが小粒で、女子学生は気持ちが先走って頭でっかちとのイメージがあるようだ。上智大学は小さな大学で、努力次第で頭1つ飛び出した学生になることができる。だが一方、大学だけでは世界が狭いことを忘れてはいけない。平穏にその場その場をやり過ごしていくだけでなく、自分の意見を持って、時に対立しても他者と互いの意見をぶつけ合ってほしい」。

 

 

2018年10月3日